黒糖です。
2021年の4月より、新社会人として働いています。
実際に働いてみて、仕事は案外大変だけどまぁ悪くない、なんとか続きそうだな~くらいの気持ちで働いています。
土日はしっかり休めるため、趣味の自転車やブログの更新、ゲームなどなどオンオフの切り替えがしっかりできる、思っているよりはお金があるなど社会人も案外悪くないことに気づきました。
配属された課の先輩社員のみなさんはみな優秀で居心地もよく、困っていることは特にありません。
ですが、社会人に変わって恐ろしいほどに学生が羨ましくなりました。
時間的自由もあると思いますが、それ以上になんにでもなれる無限の可能性と目に見えるものすべてが輝いて見える若さがとにかく羨ましいです。
これは高校2年のときにはじめてママチャリで旅した時のブログ記事です。
なんかもう、今の自分にはないキラキラが見受けられます。
言い回しも今より青臭く、若干恥ずかしい気もしますがそれも全て輝いて見えます。
今の自分にないものが確実にある。歳をとるってこういうことなんだろうな、これからどんどんキラキラが失われるのかもしれない。
中高生のころにあった夏の夕暮れ空がきれいで、入道雲に見入っていたあの日も、寒い手をこすりながら吐息で曇る冬の朝も。
おそらくもう体験することはできないのかもしれない。
そして、もうあの頃の感覚がないことに対してありえないほどの焦燥感と、「なんにでもなれた」学生の時期は終わり、このままでは何者でもないままで終わっていくことへの恐怖で胸がいっぱいになります。
その焦燥感は寂しさに繋がります。
いちいち季節の変わり目に一喜一憂したり、3月の終わり、来る新学年に向けて焦ったり、そんな中公園で友人や先輩と安い缶チューハイを飲みながら語らい合ったあの日の感覚はもう二度と帰ってこないかもしれない。
「なんにでもなれた」時期を無下にして、何者でもないまま終わってしまう可能性の高い自分の人生が怖い。
有象無象のスーツを着て、決められたフォーマットに沿って話すだけで社会人になる。
その中でみな自分を強く、よく見せようと精一杯Twitterで繕う。
お互いがお互い「周りより良い人生でありたい」と思う気持ちは小さなマウンティング行為になり、ストレスは積み重なっていく。
狭い7畳間のアパートには、高校生のころ聴いていた曲で構成されたプレイリストが響く。
聴きながら二度とこない高校時代の青春をかき集め、何度も何度も噛みしめる。
「この曲聴いてた頃、こんなことあったな~」と聴きながら、当時の友人たちに連絡をとるも、皆疎遠になっていく一方。
解決方法は今を充実させる他ない。
それでも思い返して、スルメのように何度も噛み砕いて味を確かめるだろう。
戻れるなら戻りたい学生時代、いや、学生という身分。
やり直したいとは一切思わない、もう一度、いや、永遠に繰り返していたい。
今日も寝る前のまとめサイト循環ルーチンをこなし、明日の労働に備えます。